見た目ではわからない発達障害、障害者と障害児
障害の受容
子どもにしても大人にしても、発達障害というものは見た目ではわからないし、診断を受ける前とあとで、その本人に変化があるわけでもない。
ただ、「ああ、そうだったのか」と自己理解するだけ。
親御さんであれ、成人だったら本人であれ、障害というものをそれまでどう捉えていたかによって、発達障害の受容は変わってくるのではないかとわたしは思う。
わたしは、どちらかというと障害というものに大きな隔たりを感じていて、暴言を吐くならば「人ではなくなる」くらいにイメージしていた。
つまり根本からの差別をしていたわけだ。
障害と面とむかって対峙したのは、息子の診断を受けたとき。
診断してくださったドクターに暴言を吐いた覚えがある。
せっかくドクターが「お母さんのせいではないですよ」というセリフを言ってくれたのに。
それからが障害についてわたしの考えがゆっくり変わって行ったはじまりだった。
診断を受けた児童相談所。
当時は知的に障害のない子の療育はなく、すべてが様子見だった。
あるのは二年に一度程度の発達検査/知能検査(WISCか、田中ビネーが、K-ABC)。
検査に関してはこと細やかに、数値も結果報告もいただけたのはとてもありがたかった。
親ができることといったら、自分で発達障害を学ぶことしかなかったから。
検査をしてくださった心理士さんに、おすすめの本を教えていただき、翌日には注文を出していた。(今では発達障害に関する本は山のようにあるけれど、当時は普通の書店にはまず置いていなかったから)
高機能自閉症・アスペルガー症候群「その子らしさ」を生かす子育て 改訂版
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高機能自閉症・アスペルガー症候群入門―正しい理解と対応のために
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初めて発達障害について学んだ本はこの二冊。
穴の開くほど読み込んだのを覚えている。
最初に出合った本が吉田友子先生の本でほんとうによかった、進めてくださった心理士さんに感謝しなければならない。
ネットでも情報を集めようとあちこちさまよい歩いた。
当時はブログの形態ではなく、個人が作るHPの形に掲示板があったりしてそこで、発達障害を育てている親たちが悩みを打ち明けあったり、馬鹿話をしたりしていた。
自閉症協会やアスペエルデの会など大きな団体もあることを知ったけれど、いかんせんどれもお金がかかる。(自閉症協会は負担のかからない金額でしたが)
親の会なども地域に存在しなかったので(知的に障害のある自閉症の子の会ならあったのですけど)横の繋がりも情報も得られない。
ただただ、自閉症スペクトラム、発達障害ということを知れば知るほど「ふつうと違って何が悪い?」という気持ちが消えずに、それが、息子の子育てにも多大な影響を与えてしまったのではと思う。それが悪いことかいいことかは別として。
この状態の中で、発達障害の受容は、わたしの頭の中で「発達障害の症状」が自分の息子にしっかり当てはまること、だから、息子は発達障害(自閉症スペクトラム)なのだ。という図式が描けるようにまでは すすめられた。
それでも、息子が「この社会の中で生きていくことが難しい、困難である」というイメージには行き当たらず、なんとかなるさと気楽に考えていたところがある。
その理由は、わたしこそこの発達障害の症状にぴったり当てはまる。それでもここまで生きてこれたし、会社員も10年、自営業も10年やってきたのだから。と自分を基準に置いてしまっていた、のちに思い知らされるのだけど、これは大きな間違いだった。
「ふつうと違って何が悪い?」
発達障害というものはわたしにとっては、あまりにも普通すぎた。
自分の身の回り大人たち、つまりは親兄弟、叔父叔母、いとこたち、血縁者の中には、いま思えばあきらかに発達障害の傾向が色濃く出ている人が多すぎた。
だから、発達障害の症状一つ一つが「どこがおかしいの?」と反発せずにいられなかったのだ。
わたしの育った家族はりっぱな機能不全家族。
それも根っこの部分では発達障害者の集まりだったから、ということもあったかもしれない。いわゆる普通の常識がない人たちだったから。(もちろんわたしを含む)
ただ、両親は(両方ともすばらしいほどの毒親)発達障害だったとしても、その凸った部分での才能を生かしてお金を稼いでいたので、お金だけには余裕があったというのが救い。
なんと言ったらいいのか、普通と違うことに悩むことも苦しむこともない、子ども時代を送っていた。これは大きな誤認知なのだけど、これがあったおかげでいまわたしは生きているんだと思う。もし自己肯定感がボロボロになっていたら、きっと死んでたと思うから。
人と違う思考、人と違ったことを好んだり、行動したり、そのおかげで、いじめられたりしたけれど、ぜんぜん平気だった。いじめる子たちを反対に上から目線で追いやっていた。鋼の心臓の持ち主だったと思う。
もちろんそれは子どもの時どまり。
生活圏がひろがっていくにつれ、世の中のルールや社会の常識と言うものはいやでもついてまわるので、自分の中でものすごい自身を根本からひっくり返すような変化に追いやられた。
それでも、子どものころにつちかった「人と違って何が悪い!」という芯の部分は変わらなくて、なんとかこうとか信じられないくらいの努力をして、社会になじもうとしてきた。
ようするにわたしは発達障害のことを「努力すれば何とかなる」と思い込んでいたのだ。
そのために何度もからだも精神も壊して医療のお世話になってきたにもかかわらず。
息子の二次障害
診断から4年、小学校二年生だった息子が二次障害に陥った。
身体に現れたのは抜毛と夜驚症と胃腸障害。心の面に現れたのは、たぶん解離。そして、発達検査での最低数値(精神遅滞域)。
学校とのやり取りや医療機関に時間をとられ、それまではパートタイムではあったけれどフルタイムで勤務していたわたしにとって、はじめてゆっくりと息子と対峙したといっても過言じゃないと思う。
そう、やっと発達障害の障害という部分にしっかりと目を向けることが出来た。
障害は努力や根性だけでは、社会で生きていくことができない。
このことに気づくことができた。
遅すぎた気づきだった。
息子のことももっと早くから、彼自身が苦手な部分をもっともっと手助けしていたならばと、悔やんでも悔やみきれない。
二次障害とはかくも恐ろしいものなのかと思い知った。
息子の回復まで実に10年近くの月日が必要だったから。
中学の終わりに受けた発達検査・知能検査でようやくふつう域まで知能が戻った。それでも二次障害を起こす前のIQには戻ることは出来なかった。
現在でも、まだ完全に回復したわけではなく、やっと自分の足で歩き始めたという表現があっていると思う。
わたし自身の診断
息子のことで頭がいっぱいであったその頃、実家とのトラブルも加わり、体調も最悪な状態になって、普段から通っている内科医からうつの薬を処方されたのがきっかけで、精神科の門をたたいた。
あっという間にうつとASDの診断がおりた。
そりゃそうだ、息子以上に発達障害の症状にぴったりだったのだから。
自分の治療費を抑えるために、自立支援費を申請。
カウンセリングもはじめ(ラッキーなことに保険内でうけることができた、保険じゃなかったらきっとカウンセリングはうけていなかったと思う)精神障害者福祉手帳も申請。
住んでいる地域では、公共交通機関のほとんどが手帳のサービスで利用でき、息子の通院やカウンセリングを含めお金の面で本当に助かった。
仕事をほとんどしていなかったので、自由になるお金が皆無だったから。
はじめて手帳のサービスを利用したとき「これから障害者」と強く思った。
手帳を貰う前と後と、わたし自身が変わったわけではないけれど、手帳のサービスを受けることで福祉のお世話になる。という門をくぐったわけだ。
ここで、もう一度、障害というものについて深く考えることができた。
現在は手帳は二級、障害者年金も二級をいただいている。
家事が出来なくなったのと、時間通りに動けなくなったので、家事支援と移動支援でヘルパーさんのお世話になっている。
仕事もやめることが出来た。
福祉のお世話になっていなかったらどうなっていただろうと考えただけでも怖くなる。
身体がボロボロになって、いままで我慢しすぎていたんだということにやっと気がつく。
これもほんとうに遅すぎる。
もう少し手前で気がついていたら、あんなに無理をせずに生きられたかもしれない。
できないことはできないんだ。
だから障害なのだ。
障害は社会で生きていくために障害となっているものがあるから障害。文字通りだ。いろいろ考えてもこんなことしか浮かばない。
— rururirura (@h_rururirura) February 3, 2016
息子が大きくなるにつれ、周りの目が変化していった
小さな頃は、多少おかしな行動や言動があっても、周りの人々はけっこう温かい目で見守ってくれていた。
良い例が迷子。
大型ショッピングセンターで、1秒目を離したら次の瞬間には消えている。
こういうことが多かった息子。
親が必要になったら、「お店の人に頼めばいい」というのを覚えたか、一通り自分の用事がすむと、迷子センターの呼び出しをしてもらっていた.。
それが小学校の一年生まで。
店員さんも小さな子としてやさしく接してくれていた。
それが、小学校も高学年のころ。もうその頃にはひとりでショッピングセンターで行方不明はなくなっていたけれど(成長したのではなくて、二次障害のせいでひとりで行動できなくなっていた)たまたま、わたしとふたりで買い物中、夢中になったわたしが悪いのだけど、息子の姿が見えなくなって、あわてて探し回ったら…
レジの横で、涙をぽろぽろ流しながら、じっとたたずんでいるどこから見ても高学年の立派な男子が。
店員さんは見て見ぬふり。というか、腫れ物を触るかのような冷たい視線。
あぁ、これが障害者への視線なんだ。
と、殴られたかのような痛みとなって感じた。
そして、息子が中学生になって、その卒業式で。
息子は支援級に在籍していましたので、支援級のクラス名(息子の学校は数字だった)で名前を呼ばれて卒業証書を受け取る。ほとんど不登校だった息子それでも何とか無事に卒業できたことにほっと胸をなでおろしてその姿を見ていた。
私の斜め前に座っていた卒業生の親御さんご夫婦。
ご主人が「○組ってなに?」(○組は支援級)と奥さんにたずね、
その返答が、
「障害者!」
と、はき捨てるように口から飛び出す。
その口調も気になったけれど、何よりも障害児じゃなくて障害者といわれたことが、胸に大きく突き刺さってしばらく苦しくて仕方がなかったのを覚えている。
もう障害児ではないんだ。世間の目は障害者という目で見るんだ。
子どもから大人へ。
障害によっては無事に生きて育つことを一つの目標にしていらっしゃる親御さんも多いでしょう。
無事に育ったら育ったで、今度は世間の「障害者」という目でむかえられる。
わたしも、息子が自殺をせずにここまで育ってくれて、現在では自分の将来に夢を持って取り組んでくれている。
それだけでしあわせになってしまうのですが、これから息子を待ち受けているのは、障害者という世間の目。
もちろん、働き方によっては障害をクローズド.にして勤めることも出来るでしょう。
でも、たぶん、息子には無理かな。現実的とは思えない。
それではどうするのか?
障害者枠で雇っていただくか、自分で何かでお金をもうけられないとならない。
それはとても難しいこと。
それでも本人は、やる気があって夢もあって、だからいまがんばっているので、親はその後押しをしてあげるだけ。
さいごに
息子自身は障害というものを受容しているように見えます。
ただ、世間の目を彼はまだ知りません。
そのあたりを知っていく感じていくのは本人自身が経験しないとむつかしいです。
そのときに、ちゃんとアドバイスできる障害者の先輩としてきちんとしていたいなあと思うわけなのです。
でも、願わくば、障害者だからという差別的な考えで苦しまずにすんでほしい。
そのためにも、発達障害の啓発、啓蒙はやっぱり大切なのだと、心から思います。
差別の目、差別意識云々のお話がしたいわけではないのです。普通の人から見たら?の目で見てしまうのはある意味自然なことだからほんとうに仕方がない。ただその?の目が、ほんものの差別に移行していくのは防ぎたいなと思うのです。だから啓蒙や啓発って必要なのだと。
— rururirura (@h_rururirura) February 3, 2016
今回このような内容の記事を書くきっかけを作ってくれたのが、こちらのブログ
痛みを伴って伝わってくる何かに刺激されて、この記事を仕上げました。
ふみきちさんは、わたしと同じ発達障害者であり発達障害児を育てている母親でもある。当事者であることと育児者であることこの二面性を持って毎日を過ごしていかねばならない。素直につづられているからこそ、その思いがぐいぐい伝わってくる。
もうお一方の当事者。
障害の受容とは一種の生まれ変わりとも考えられます。「お葬式」という表現が妙にしっくりきます。納得のいく内容です。
専門家の方のやさしい言葉でつづられた記事。
障害をなくすことよりも、「普通」になることよりも、もっともっと、その子自身、あなた自身になっていくプロセスを歩んでいけるようにと願います。
少し引用させていただきました。すてきな言葉です。優しい気持ちになれるし自分が自分でいていいんだ、自分は自分らしく生きてもいいんだという気持ちになります。
この記事は発達障害児を育てている親御さん宛でもあり、成人の当事者宛てでもあると感じました。
- 作者: 渡邊芳之,川口有美子,村上靖彦,岩井阿礼,中西英一,堀越喜晴,まさきゆみこ,渡喜代美,田島明子,岡友恵
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最後までお付き合いくださいましてありがとうございます。