ファンタジー頭へようこそ!

別名お花畑あたま。

不安定な心と夢の存在。

わたしの場合寝逃げが一番効果的。

不安で頭の中がいっぱいになったら、とにかくお布団にもぐりこむ。

そして自分の呼吸だけを意識して、次には途方もない夢物語をイメージしつつ…

と、このあたりで過眠症であるわたしは眠れてしまうから便利なのである。

 

それでも時々、どうやっても眠れないときはある。

考えすぎたりして興奮が止まらないときだ。

 

こうなってしまうと、ゆっくりと時間が過ぎるのを待ちつつ、不安な心を落ち着かせるために、幾度も考えたことを繰りかえし繰りかえし脳内で反復させる。

ノートなどに不安要素を書き留めて、目で見て不安要素を解消していく方法もする時がある。

不安の中にある自分との対峙だ。

 

それは方法として単純なほどよいような気がする。

 

そして一通り気がすんだら、眠る体制になって睡魔が訪れるのを待つ。

そのときは出来るだけ不安要素は考えない。

考え出したとわかったら直ぐに他の事を考える。

楽なことだけを好きなことだけを考えたり、そのビジョンを浮かべていると、何とか眠りにつける。

それが夜明け前であろうとも少しは眠れる。

 

眠ることはわたしにとって最高の幸せなのかも

幾度か書いているけれど、わたしの見る夢は明晰夢がほとんど。

夢を夢ときちんと認識した上で、夢の展開を楽しむことが出来る。

 

まあほとんどが悪夢なのだけど、その悪夢に負けないように必死で踏ん張る自分を見ることが出来て、現実で多少つらいことがあっても大丈夫な精神を準備しているような気がする。

どんな悪夢が襲ってこようが、何とか切り抜けることが出来る。

悪夢なれってやつかもしれない。

 

わたしが夢の中で本当に恐怖を感じたのは、自分が諦めてしまった時。

夢の中で完全に諦めきって、たとえばそのまま死を受けいれる、永遠に続くだろうループから逃げる方法を考えるのをやめるとか…。

これは夢だとわかっているからそうしてしまうのかもしれないけれど、それが現実に最も近いから恐怖につながるのかも知れない。

 

諦めたら終わり。

 

そういうものにわたしは縛られているのかも。

 

それでも夢を見ることで現実の毎日を過ごすことが出来る

自分でも何を書いているのかわからなくなってきたけれど、夢でどんな展開になろうとも、夢の中に隠されているものにほんの少し触れることで、現実を生きる糧になっている。

 

夢の時間軸と現実の時間軸はもちろん違っているから、夢で見たものが今の自分にそのまま反映されているものではないとわたしは思っている。

でも、それは何等かな形で今に繋がっていて、夢という空間から現実へ何かのメッセージを送ってくれているような気がする。

 

うん、だんだん、スピリチュアルな考えになってきているけれど、夢だけは自分自身のものだし、そこから見出されるものは確かに自分自身についての物語であり、映像であり、その他諸々の感覚であることは確か。

 

夢のお告げとか、そういったものはまったく脳裏にはないけれど、夢については深く知りたいとは思っている。

 

夢の研究ってどうなっているのだろうか?

気になるところだけど、とりあえず自分の夢の中のことだけで精一杯な感じではある。

おなかいっぱい的なアレである。

 

困った、とてつもなく投げやりな内容になってしまった。

 

とりあえず、

わたしにとって夢を見ないと現実の不安というものから立ち直ることが難しい。

と、このことだけはきっちりと書いておこう。

 

 

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最後までお付き合いくださってありがとうございます。

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夢の中の感覚・明晰夢そして現実

非器質性過眠症と診断されて

過眠症のお薬(モディオダール)を服用するようになって、ダラダラと眠る回数が減った。

その結果、ダラダラと夢の続きを見ることも減った。

 

わたしの夢は基本的に明晰夢で、夢を見ている自覚がしっかりとある。

そのお陰で、ひどい悪夢を見ても何とかクリアできるように夢を構築することもできる。

(もちろん夢なので、その内容はむちゃくちゃだけど…。)

 

ダラダラ寝が減って、ダラダラ夢が減ったお陰で夢の一つ一つの内容が濃くなってきたような気がする。

下手な逃げ道がなくなったせいかも。

 

夢の中の感覚

線維筋痛症のせいなのか、子どものころに受けた身体的虐待のせいなのか、わたしの夢はトコトン痛覚があって、結構痛い。

夢だから結構グロイ。

視覚からと痛覚からと二重にわたしを痛めつける内容が多い。

これも、慣れてしまっているせいで、何とかクリアしてしまう。

どんな大怪我を受けようが火で焼かれようが死なないんだなあ。

夢だから当たり前だけど。

 

夢だから死なない。

夢だから痛くても平気。

これは小学校高学年の頃から記憶にある。

 

こう表現したら変だけれど、私の人生の半分は夢で構成されているような感じ。

現実とよくごっちゃにならないと自分でも思う。

 

最近、集中して夢をみるようになって、夢の出来事が自分自身のリアルの過去をよく見るようになった。

それも時間軸がめちゃくちゃになっているので、夢だとわかるのだけど、明晰夢じゃなくて、夢を夢と意識していなかったら、毎晩フラッシュバックで大変なことになっている。

現実であったことを夢の演出で大げさにしたものを感覚つきで見てしまうというのは、結構きつい。

 

夢の中での自己分析

結構きついけれど、何故かそこで、わたしを観察してこの状況を分析してわたしを納得させるあるいは反省させる自分が登場していて、ずいぶんと過去の出来事から救われているような気がする。

現実では夢の分析などはしないけれど、夢の中でやっているみたい。

まあ、夢としての分析じゃなくて、リアルに極々近い出来事の分析だから、意味は全く違うと思うけれど。

夢分析や夢占いの類は10代で卒業したので、今は精神科のドクターの話だけに耳を傾けるようにしている。

 

わたしの夢は本当にグロいので言葉にするのも絵にするのも、躊躇わねばならないのだけど、時々幸せな夢を見ることもあって、それなら大々的に言葉にしても大丈夫。

 

幸せな夢=食べ物の夢

が多いのですよ。

なんだかね~と思っちゃいますが、これが一番幸福に感じるのだから仕方がない。

見たこともないような美しいお菓子をいただいたり、それがまた、味わったことのないような舌触りであったり、味だったりで、この夢でいただいたお菓子を再現できたならどれだけ幸せなことだろうと思っちゃいます。

 

遠い昔、夢の中で食べたものを再現しようと努力したこともありますが、やっぱり夢は夢、現実ではとても無理だと悟り、それ以来無理はしていません。

 

それでも夢の中の食べ物に現実で出会えたら、なんて幸せかと想像することはやめていません。

 

わたしはやっぱり眠ることが好き

ダラダラ寝が出来なくなって、ダラダラ夢見も出来なくなって痛感したのが、わたしの中での夢の立ち位置。

半分は夢の中で過ごしてきたから、その半分が少なくなるのがとても苦痛らしい。

夢って人間にとって重要なポジションにあるんだなあとも。

 

わたしの夢はあまり幸せな夢は多くないけれど、それでも夢を見ていたいと思う心がある。

それはちょっと不思議だけど、夢の世界には夢の世界の掟があって、たぶんそれがわたしには心地よいのだと思う。

何せ自分だけの世界だし。

 

夢を見ることができるから現実もがんばってみようかなという気にさせてもらえる。

現実のほうが夢以上に不可解で突拍子もなくて理解不能な出来事も時々は起きるけれど、生きていると言う実感を与えてくれるのは現実だけなのだから。

 

お薬で現実と向き合って、少なくともわたしの生活は大いに助かっている。

あとは、夢と現実の世界このバランスをとりながら、体と心のバランスもとりながら、上手に生きていきたいと思う。

 

 

 

睡眠と夢

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水の音が好き。

 

水の音が好き。

なんともいえない気持ちになる。

だからわたしは洗濯が好き。

洗濯機が動いているときの水の音がたまらなく愛おしく感じる。

静かに給水しているときの音もすてき。

洗濯できる幸せをかみしめてみる。

 

でも、

 

わたしは水に長く触れると、心が時間をさかのぼってしまう。

過去へ過去へと。

美しい水はどんどんにごり、透明感は失われていく。

 

決してきれいではなくなった泥水の中でわたしは泣いている。

泣いても泣いても誰も助けてはくれない。

身体のあちこちが痛い。

泥の水の中には腐った魚が浮いている。

たくさんの緑色の藻もわたしの足に絡んでいる。

 

美しかった水を求めてさまようわたし。

泥の沼になったわたしのきれいな水たちは、その藻を這わせてわたしを奥へ引きずり込もうとする。

でもわたしは泳ぐことが出来る。

にごった水の中でもきっと泳げるはず。

足の自由を奪われて、奥に引きずりこまれても、わたしの腕は水をかく事をやめたりはしない。

口の中に、匂いのきつい水がたくさん入ってくる。

泳いでも泳いでも、わたしの足は自由にはならない。

そのまま奥へ奥へと引きずりこまれる。

でもわたしは死にはしない。

これは夢だし、きっとこの水の中でも呼吸が出来るはず。

わたしは呼吸をしようと胸を広げて深呼吸をしてみる。

入ってくるのは苦しい苦いにごった水だけ。

そのままわたしの自由は奪われてにごった水の奥に閉じ込められる。

 

誰も助けてくれない。

自分で自分を助けるしかない。

 

 

 

 

そんな夢なのかフラッシュバックなのかわからない状態の中、

わたしはゆっくりと頓服を飲む。

 

ため息とともに、にごった水たちは少しずつ消えていく。

 

もとの、光が反射してきれいになった水を如雨露にとって、わたしはベランダの花たちに水をあげる。

 

もう大丈夫。今のわたしは花の世話をしている。

もう大丈夫。

 

 

 

冷たい水の中の小さな太陽 (新潮文庫)

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わたしを追い込む声が止まらない夢のはなし

 

最近、よく寝汗でびっしょりになって起きる。

温かくなってきたからなのか、夢見が悪いのか。

 

からだが思うように動かない。

からだ中が痛くて前に進めない。

そこにとどまっていてもずっと待っていても、誰も気付いてくれない。

嫌な思い出だけがぐるぐると回りこんでくる。

それらを振り払うことさえ出来ないわたしの腕。

 

人の話し声にだけ同調しようとする私の意思。

本当はそんなことしたくないのに。

やっと誰かがわたしに気付いてくれる。

わたしは入院している患者のようだ。

何時間か外に一人でいたらしく、すぐに手当てを始めてくれた。

わたしがすぐに気がつくと、医者らしき人も看護師らしき人もわたしをそのまま置き去りにしてどこかへいってしまった。

わたしが留まっていたそこは高い塔の上だった。

しばらくすると誰かが来て何とか病室まで案内してくれた。

わたしはほっとする。

 

人たちの声は相変わらずわたしを無理に動かそうとしている。

耳はふさぐことが出来ない。頭の中での話し声だから。

動かないからだを無理に動かして少しずつ進んでいくと、そこは凍りついた高速道路だった。

わたしに人たちは追い込むように話をする。

そんな話は聞きたくない。

命令でもなく、指示でもない。だけどわたしを追い込む。

凍りついた道路を、転ばないようにゆっくりと進む、車のライトはまだ見えない。

道路をやっとのことで横切ると、そこは木々たちが凍りついた世界。からだを支えようと木に手を触れると指すように冷たい。

 

汗でびっしょりになって目が覚める。

 

目覚めの不快感は毎度のこと。

夢の中での言葉が具体的になってきてしんどかった。

夢を夢とわかっていることをそしてそれを操作できることが明晰夢

これは夢とわかっていても、それを見続けるしか能のないわたし。

こういう夢のときは夢の場面を変えることしかできない。

設定が変わってもあまり内容は変わらない。

ただただた夢の終わりをまって耐え続けるしかない。

しんどい。

それでもわたしは夢の世界を愛する。

何故なのだろう?

これはわたしの中の不思議。

 

 

夢のカルテ

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今朝方見た夢。

 

今日は朝からしばらくの間、頭の中がダダ漏れ状態になってしまった。

ようは思考をそのまま口に出してしまって(他者から見たらめちゃうるさい独り言)とても外に出られない状態だった。

頓服でヒルナミンを飲んで、何とか落ち着いたから良かった。

 

なんと言ったらいいのだろうか自分の現実をいちいち確かめないと不安で仕方がない感じ。

自分が今この地球でこの日本でこの家にちゃんと存在するんだと言うのを確認しないと不安。

これが出てくるとかなり不安定な状態になる。

 

 

多分今朝方見た夢が悪かったんだと思う。

 

私の夢は、普通に五感があるので色、音、匂い、味、感触、もれなくついてくる。

飼い犬の布団によって来る独特の息と顔をなめられる感触。

ああ、布団に入りたいのかと布団を少し跳ねてあげる。

近づいて来て布団にもぐりこむ感触。

そこで気がつく、あぁ、この犬は遠の昔に死んでしまった犬じゃないかと。

それに気づいてしまったら布団にもぐりこんでいた犬の存在がぐんと怖い存在に変化して私を苦しめ始める。

大事な大切にしていた犬ではなかったのだろうか?他の存在だったのだろうか?

布団から飛び出てドアにむかう、扉を開けるとそこにはまた扉があってそれを幾度か繰り返すと、また部屋がある。

その部屋には沢山の子どもがいて、レゴブロックもどきの大きなブロックで遊んでいる。ブロック会社が分裂して二つになったそうだ。だから大きなブロックと小さなブロックは別々に買わないといけないし使わないといけない。でも中加減のブロックはどうしたらよいの?と言う悩みをぶつけられる。私はそれには答えてあげることが出来ず、いたたまれず部屋を後にする。

またドアの向こうにドア何度か繰り返すと引き戸になっていて、小料理屋になっている。昔勤めていた会社の上司がいて仕事だからといって、クライアントのおじさんに色々サービスをしろとやんわりと命令する。

冗談じゃない、何とかその場から逃げようと試みるが、ドアの向こうのドアも、また同じところで、同じようなことを要求される。

私は叫びすぎて声が出なくなる。

恐ろしい思いが沢山雪崩のように崩れ落ちてきて、私の息は止まる。

一度死んでしまった私は幽体のようになってまたドアから次のドアへと逃げていく。

ドアは開き戸になったり、頑丈な重い扉になったり、その時々で変化する。

体育館に出る。

沢山の生徒たちが部活動?をしている。

邪魔にならないように逃げようとするが、追いかけてくるものはそんなことかまっちゃいない。生徒たちや体育館にある器具や道具を全部飲み込みながら追いかけてくる。

大きく膨らんでいるそのものから逃げていく私。

もう死んでいるはずなのに、まだ逃げなくてはならないのか。

多分永遠に続くのだろう。

そう思いながら私は自分が夢を見ていることを知っている。

 

こんな内容の夢だった。

かなりグロい部分もあったんだけどそれは削除。

 

私はこういう夢をよく見る。

今日の夢はわかりやすい夢だったと自分で思う。

でも、夢で走るとやっぱり現実でも疲れているし、夢で感じた感触はしっかりと残っているし、光や音や…(あぁそう言えば昔は音のない夢ばかり見ていたなあ)わたしの現実にしっかりとしがみついてはなれない。

夢であるとはちゃんと理解しているけれど、この中途半端な感触だけは夢と現実の境目がない。

夢とはそういうものなのだろうか?

 

 

 

アンドロイドは電気羊の夢を見るか? (ハヤカワ文庫 SF (229))

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 ディックのSF、高校のときにはまって読みまくりました。

このタイトル素敵ですよね。

 

 

ふわふわと夢の中で生きることを止められるでしょうか?

存在感のなさを昔から指摘されますが、私はちゃんとここにいます。

 

 

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