人はみな違う。人はみな差がある。だからすごい。
わたし自身が発達障害で子どもも発達障害
マジョリティである普通のお母さんからすると、発達障害の子はとても育てにくくて大変だという話を良く聞く。
正直なことを書くと、我が家の場合育てにくさを感じたのは、保育園に入ってから。つまり家という小さな社会から、少し大きな保育園という社会に入ってはじめて、普通と呼ばれる子ども達との違いを感じ、見、聞かされ、その保育園という初めての社会での我が子の生き方が多くの普通と呼ばれる子どもたちとかなり違っていることを知ってからのこと。
わたし自身がASD(自閉症スペクトラム)ということもあり、自身の幼児時代の数々の勲章物の出来事を覚えているだけに、違うことが問題のあることとは少しも思っていなかったのもある。
他の子どもと違って問題なのは、命令(号令)にしたがって、みないっせいに同じことをやらなければならないときにそれが出来ない、ということが、社会を営む中で大きな問題になるということを、はじめて第三者の目で(つまりは母親の目で)知ったのです。
自分も出来なかったことなので、子どもにもそれを「こういうものだから我慢して従いなさい」「ほかの子と同じにしないとダメなの」とは、親ですが出来ませんでした。
そのかわりに、「こういうルールだからがんばろう」とは言えました。
いま思うと、そういう言い方をしてよかったと本当に思います。
家という一番小さな社会の中では、何の問題もなく過ごせているのですから。
見た目でわかる違いと見た目でわからない違い
内部障害や、聴覚障害、精神障害、わたしたち知的に遅れのない発達障害の人たちは、見た目ではマジョリティとの違いはわかりません。
知的に遅れのある発達障害や、重い精神疾患のある人でも、その特徴的な行動が出なければ見た目ではわかりません。
身体障害の場合でさえ、見た目でわからない人も多いと思います。
見てわかるというのは、多くの人々との違いがハッキリと形になってわかるということ。
不思議ですね。
たとえばメガネをかけている人だって、見た目でハッキリとわかるのに。髪が真っ白になった人もあるいは、ほとんど髪のない人も、見た目でハッキリわかるのに。
その多くのマジョリティとの差を「違い」としてあまり認識されない。
これは、見た目でわかる違いであっても、その数がマイノリティではあるものの、かぎりなく多いからでしょうか。それとも、多くの人々が将来メガネをかけたり髪が白くなったり、ほとんどなくなったり、補聴器をかけたり、という可能性が高いからで、その状態を想像しやすいからでしょうか。
確かに、見た目でわかる違いというものは想像しやすいと思います。
かたや、見た目でわからない違いは、マジョリティの方々には想像できないことなのかもしれません。
一番想像しやすいだろうなあと思うのは、認知症ですが、それさえ、想像するのを拒否しているように思えるのは考えすぎでしょうか。
簡単に想像力のせいにしてしまっては、これまた違いを指摘しているように感じてしまうので、想像力以外の何かの力が働いていると、わたしはわたしの中で仮定しています。
障害あるなしに関らず、人はみな違いがある。
あたり前のことですよね。
人種的な違いはもちろんのこと、単純に顔かたち、身長差、大きいところでは男女差、遺伝子のちょっとした違いで出る様々な差、ざっとわたしなどが考えてみても、生まれ持って異なっている部分はたくさんある。
そして、後天的な環境で異なってくるものもたくさんあります。
人は違いがあってあたり前、差があってあたり前なのです。
それでも、何故か、どうしてか、不思議なことに、その差をその違いをすんなりと受け入れることが出来ないように人はできているのかもしれません。
太古の昔、人としての歴史が始まったばかりの頃から。
自分たちと違う異質なものを感じ取って、排除しなければ、生きていけなかった環境。それがとても長く長く続いた。
その記憶が遺伝子にでも染み付いているのでしょうかね。
実際に障害を持って生まれてきた赤ん坊は、つい近年まで、そのほとんどが生き延びることが出来なかった。障害とまでいかなくてもちょっと身体の弱い子どもは、成人するのさえ難しかった。
そういう時代も長く続いた。
伝染病もそう。
自分たちと少しでも違いがあると病気かもしれないうつるかもしれない、死んでしまうかもしれない。
違いというものは恐怖を呼び起こすものなのかもしれません。
いまのこの時代に、伝染病と疾病や障害の違いはみな理屈ではわかっているのでしょうが、どこか遠くで恐れや嫌悪という感情がこみ上げてくるのかもしれません。
人間の歴史を見ても、人が人を差別し、あるいは病気のものを隔離し、そういったことは現在でも続いているところもあります。
宗教での差、これも、わたしにはほとんど理解できませんが、歴史的にも、そしてこの現代であっても、宗教の差は大きな大きな差なのですよね。
人間はみな違いばかりじゃないですか。
教育にしたって、旧帝大出で一流企業にお勤めとか、中卒で工場勤務しているとか、ピアノでどこどこコンクールに出たとか、絵画教室を経て有名美大に入ったとか。サッカーブームに乗って小学生のチームに入れたらスカウトが来るまでの選手になっていたとか、野球で名をなしたから野球推薦で有名校に入ったはいいが、怪我をして勉強についていけなくて中退したとか。勉強がぜんぜん出来なくて、好きでもない工業系の学校に入っちゃった子とか。勉強が好きで進学校に行く予定だったのが、親の反対にあって高校を卒業したら就職に有利な商業の高校に入ったとか。親に反抗するために大学進学せずに東京で専門学校へ行って、フリーで仕事をしているとか。信じられないくらい裕福な家に生まれたのだけど、何故かアパートに住んでいるとか。いい環境で勉強が出来それこそ旧帝大に入り順調に研究にいそしんでいたのに、何も残さずに自死してしまった子。
みんなわたしの知人たちです。
同じ日本で、同じ地域に住み、これだけでは環境の大きな違いってほとんどないですよね、それでも、たくさんの人たちの生き様はみな違う。もちろん性格も、体質も、みんなみんな違う。
すごくあたり前のことを書き綴ってしまいました。
違いと差別、侮蔑と嫌悪、そして、敬意と共生
違いがあるからには、差があるのはあたり前。
現在では差別というと、あまりよくない意味で使われる一つの言葉となっていますが、その差別という言葉でさえ、敬意を持って使えば、その意味合いは変わってくる。
あなたと私のこの差って、とても興味深いことだ!
わかりやすいところでは、男女間。男女差があるからこそ、そこに恋愛というものが生まれやすくなるのではないでしょうか。
あなたの色彩感覚ってわたしにはまねできないステキな感覚だわ。
あなたの目はわたしと違ったものが見えているかもしれない、そしてあなたの耳は私の耳よりもずっと良く聞こえる。
あの子は全身を使って何かを伝えようとしている。わたしはそれが伝わらないのが悔しい、何とか通じ合う方法はないかしら。
こういう感覚の上での差別、あるいは差別用語と呼ばれるものを使っても、それは敬意であり、侮蔑ではないと思うのです。
嫌悪や嫉妬から来る、差別は何も生み出しません。
使うほうも使われるほうも、黒いものに包まれてしまいます。
この問題も、人間の歴史から見ていけば、多数の人との違いが大きければ大きいほど、あたり前に行われてきたことなのはたしか。
科学の力で医学の力で人間の英知のおかげで、人は長く生きられるようになりました。
病気をしても治るようになりました。
たくさんの伝染病もこの世から消えつつあります。
身体の弱い子も、障害を持って生まれてきた子も、普通に生きられるようになってきました。
きっともっともっと、少数派の人間たちが暮らしやすい工夫が研究され発明され、すべての人間が持っている老いに関しても、もっともっと生きやすくなるような医療や何らかの発見もされるかもしれません。
元気でひ孫の面倒もみることができる、なんて世の中になるかもしれません。
せっかくこんな素敵な世の中になってきているのだから、少しずつでもいい、人にはみんなある、差や違いを、侮蔑や嫌悪という目だけではなく、少し見方を変えて、その違いを楽しめるように、この差を興味深く感じ取れるようになったらいいなあと思うのです。
それが共生。なんじゃないかと思うわたしです。
ノーマライゼーションそして、インクルーシブへ。
現象学的身体論と特別支援教育: インクルーシブ社会の哲学的探究 (心の科学のための哲学入門)
- 作者: 河野哲也
- 出版社/メーカー: 北大路書房
- 発売日: 2015/03/11
- メディア: 単行本
- この商品を含むブログ (1件) を見る
さいごにひとつだけ
それは「いじめ」に関して。
差別の問題とは別個に考えていかねばならない問題なのです。
何故いじめが起こるのか、それを追求してもそれを未然に防ごうとしても、なかなかなくなるものではないとは思います。
ただ、人と人との違いをさして、人が苦しむ姿をおもしろがって多数で一人を攻撃するのは、どう考えてもおかしいことだと思うのです。
人は食べるためじゃなくて楽しみのために動物を殺す。
ということもあるように、人が苦しんだり逃げたりする姿に一種の快感を覚えてしまうのでしょうか。
「いじめ」というと子どもたち特有のもののような勘違いをしてしまいますが、これは大人になっても存在するものです。
この「いじめ」のために、差別用語をおもしろがって使いまくるのは、やっぱりしんどく思います。
もちろん「いじめ」に使われる言葉は差別の言葉だけじゃなくてそれこそ美しいうわべで飾った慇懃無礼な言葉もありますから、そこだけに注目しても仕方がないとは思うのですが、いやなことですね。
「いじめ」についてまた機会があったら書きたいと思います。
最後までお付き合いくださってほんとうにありがとうございます。