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別名お花畑あたま。

母に感謝じゃなくて、母の呪縛から逃げる日。

母の日ですね

子どものころ、母の日に何かを贈るのは義務という名の強制だったので、良い思いでは皆無。

自分が母親になってからも、こういうイベント事に鈍感なわたしはいつも知らないうちに通り過ぎていくか、気付いていてもめんどくさくて何もしないか、もしくは、自分のために美味しい物でも作ってみたりするくらいのことしかしていない。

 

息子が小さな頃は、父の日と母の日の間の期間に、おうちの人あて(だれでもいい、色々な事情のある子どもたちにも自然と参加できるように)に、ちょっとした絵手紙などをもらったような気がする。

 

だから、母の日だからといって特別なことは何もない。

今日は冷蔵庫の残り物の整理で夕食を作る予定でいるし、ごちそうもなし。

 

息子も母の日を意識したことはまったくないんじゃないだろうか?

誕生日はちゃんと祝ってくれるので、それで充分。

 

 

わたしにとっての母の日

これはもう、先に書いたように強制でしかなかったし、それを怠ると、猛烈な怒りの感情で叱られるので、母親を怒らせないために、何がしの贈り物を選んでいた。

とても感情的ではあったが、結構単純な人なので、何かを贈れば機嫌を損なうことはなかった。

ただ、この日は、家の仕事はほとんどわたしがやらなければならなかった。

食事はもちろん、掃除も洗濯も。

母は自分の気に入る形で家事をこなさないと機嫌が悪くなる人なので、とても緊張した日になった。

とにかくとても疲れる日、だったのは確かなこと。

 

つまりはよい思い出がない日なので、自分が母の立場になっても、別段祝ってほしくないという感情がわいてしまうのである。

 

どうでもいいじゃん、母の日なんて。

と思っちゃうのであります。

 

あれ?母の日って祝う日じゃなくて、母に感謝する日なのね

そうか、感謝か。

それこそ私の人生には無関係のイベント事だ。

わざわざ日を設けて感謝しなければならない親子の関係性を、わたしは疑ってしまうという、ひねくれものなので。

 

まあ、わたしは、虐待をうけて育った子どもなので、感謝などとはまったく方向が違う位置にいたわけで、それでも、母の日には何かしなければならない。という、脅迫観念は常にあって、ちょっと難しいのだけど。

 

虐待を受けていても、子供というのは親のことが好きだとか、愛してもらいたいと願っているだとか、よく言われているし、ちょっとした専門書にもそう書いてあるけれど、わたしの場合、母親に関しては、小さな子どものころからハッキリと「この人は異常だ」と認識していて、いかに肉体的な暴力から逃れるか(耐えるか)精神的暴力から逃げるか(耐えるか)を、常に思考して、そのためにいやいやながら大嫌いな母親にも媚をうって生きてきたわけ。

 

たぶん、その当時の私と同じ気持ちで、この母の日を迎えている子どももいるだろうなと、ふと思ったのでした。

 

親の異常をわかっていても逃げられない子どもたち。

出来るだけ早く、逃げられるといいね。

母の呪縛に気がついていない子どもたちも、早く逃れられるといいね。

 

そうだ。

わたしの中では、来年から母の日には、被虐待児のことを思う日にしよう。

母に感謝じゃなくて、母の呪縛から逃げる応援の日。

そうしよう。

 

 

 

凍りついた瞳 (YOU漫画文庫)

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 *このコミック強烈だった。古い本だけれど一度手にとって見てほしいです。

 

 

 お付き合いくださってありがとうございます。感謝。

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