ファンタジー頭へようこそ!

別名お花畑あたま。

せめて自分とは異なる人々のことを知っていきたい

 

元気な子どもがわからなかった昔

子どもの頃から、毎日元気が有り余っているような子ども同級生などが不思議でなりませんでした。

どうしてそんなに元気でいられるのか、かったるくはならないのか、不思議で不思議で仕方がありませんでした。

わたしは子どもの頃から頭痛持ちで、よく頭が痛くなって気持ち悪くなって、学校を早退していました。その頃は子どもが頭痛持ちということ自体が不思議がられて、よく怠け病と思われていたようです。実際に頭痛がなくても体がかったるくてしんどくて、学校をサボったこともたくさんあります。今考えたらそれも身体が休むように反応していたのだとわかりますが、周りに誰もそんな子どもがいなかったので、自分は怠け者なんだと思い込んでいました。

元気で毎日大きな声で挨拶ができる子。

子どもの頃のわたしの頭の中そういった子どもたちを、うらやましくもあり、ある面その単純さを小ばかにしていたと思います。

 

人間は自分以外のもの自分と異なるものを理解できない

自分以外の身体と心。

人間はなかなか理解することができません。

想像力の問題とかそういう事ではなくて、わたしの頃は子どもが頭痛など考える大人はいませんでしたし、そんな子どもはいないと社会的に排除されていたんだと思います。

よく熱を出して、咳をして、苦しむ子ども。

よくおなかをこわして、苦しむ子ども。

当時子どもが認められていた病気ってそれくらいだったと思います。

実際にそういう子ども、身体が弱いとされる子どもはそこそこいましたし、みな同情の目で見ていたと思います。

 

今の子どもたち。

今の社会としては、頭痛もちの子ども、肩こりの子どもなどあふれるほどいると思います。社会的にも認められていると思います。

アレルギーもちの子どものことも早いうちに認められて本当によかったと思います。わたしの頃などアトピー性皮膚炎のある子などとてもかわいそうな思いをしていましたから。(あいつの手は汚いとか…。要するに差別的な)

 

やっぱり人間は自分自身が中心で自分以外の身体の現象も心も現象も信じられない。社会的にみんなが認めてきてはじめて自分以外の現象を有とする。

有とはするけれど、自分の感覚と異なるものにはどうしても理解できない壁みたいなものがあって、わかりやすい同情とか差別とか守ってあげなければならない存在、社会的弱者そういった形で己の中で咀嚼してはじめて納得できるものとなるのではないかと思います。

子どもの頃のわたしが、自分以外の元気な子どもたちに対してその単純さを小ばかにしていたように、自分以外のものたとえそちらの方がマジョリティだったとしてもどうしても自分の感覚と異なるものには、何らかの形がなければ受け入れることが出来ないのではないかと思うのです。

 

たとえマイノリティ同士であっても 

自閉症スペクトラム発達障害なども現在はなんとなく認められるようになりましたが、やはりどうしても形から入ってしまうようです。

色々な症状がある。

と、うたわれていても、コミュニケーションの苦手な子と括られるように形が主になって認められていくのだと思います。

ASD(自閉症スペクトラム)の子達の中でも、ほんとうにその現れ方は多岐にわたって、感覚ひとつとっても過敏な子ども鈍磨な子ども、いつも緊張しているからか身体のあちこちが弱っている子ども、反対に身体がぐにゃぐにゃでちゃんと立っていられない子。

おしゃべりが大好きで頭の中を全部しゃべらないと混乱してしまう子。話すのがとても苦手で一つ一つの言葉を確認しながらでないとしゃべられない子。

知的に障害のある子、普通の子、高い子。(これらも一定の発達検査で出されたもので線引きされているだけなので、知的に高くてもある一面をとれば普通以下の数値の子もいれば反対の子もいるでしょう)

同じ発達障害同士でも己と異なる部分は理解するのは難しいかもしれません。

 

みんなちがってみんないい

金子みすずさんのこの一言に尽きると思うのですが、また不思議なことに人間は群れを作りたがる。

自分と同じもの同士、自分の感覚と似たもの同士、自分がわかりやすいもの同士。

その中でそれぞれの違いを見つけてその発見を喜びと感ずるならば、その群れはまた別のベクトルでの心地よさが生まれるかと思うのですが、人は不安を感じれば感じるほど、人との違いを恐怖する。

それが人としての性なんでしょうか?

人とちがう部分を認めて受けいれることのできる人は、少ないながらに存在すると思うのです。いえ、わたしが思っているよりそういう人は多いかもしれません。

 

たとえさまざまな不安なことがあっても人として穏やかであれば、自分と異なる部分も感覚も自然と受け入れることが出来るのではないかとそう望んでいるのですが、私の頭では残念ながら上手にそれを表現することは出来ません。

現在の自分を鑑みても自然と自分とちがう異なる人を受けいれることは難しい。何か少しのエッセンスが必要となる。

 

多くの人々には社会的にどう見られているか、自分以外の多くの人たちはどう感じているかそういったものを科学的に認められているのか、などなどのことがほんの少しのエッセンスになるのだと思っています。

 

見えないものの狭間で

たとえば、医療のはざまで苦しんでいる人々がいます。

国の指定難病になっていないからそれは難病ではない、助けてあげなくてもいい。(ちょっと極端な表現ですね)

こういった問題は後を絶ちません。

ほんとうは、こういった問題こそゆるやかな風になびくカーテンのようなカーブの支援が必要なんじゃないかと思うのですが、それはまた別のお話。

 

難病指定されているものだけでも、一生のうちに一つもその言葉を聞かずに済む人たちも多いでしょう。ましてやそのはざまの難病など、は?と言う感じではないでしょうか。

自分が想像し得ない病。これも自分以外のものを認められないのと同じでお墨付きを得られないと何もわからないし理解しようとする術がない、そして何も支援を受けられない。

何なんでしょう。悲しくなります。

この話はマジョリティの人々を責めているわけではありません。

人の性として仕方のない部分だと思うからです。

 

自分自身、己の異質さをその他大勢の人たちを小ばかにすることで自身の脆弱な肯定感を保てたのだと思います。悲しいことですね。

そのことに気がついたのも障害と自身の子どもが名づけられたこと、そして自分自身もそうだったこと、そして自分のいろいろな病気。被虐待児だったこと。

そんな人生を歩んではじめて気がつけただけ。

 

そんな今、やはり望むのはおだやかな心で自分とはちがう人たちを受けいれること、せめて自分とはちがう人々がたくさんいることを知っていきたいのです。

 

 

 

困ってるひと (ポプラ文庫)

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 長くなってしまいました。最後まで読んでくださってありがとう。感謝。