抜き取られる記憶~蟲師「暁の蛇」
わたしの記憶
わたしの記憶はぽつんと消え去ってしまうことが多い。
日常生活をただ送る分には大丈夫といえるけど、突然消えたり現れたりする食材には困ってしまう。
その食材をどうしたのかの記憶がないのだ。
もうだいぶなれてきたけど、やっぱり困ることにはかわりがない。
あると思った食材がないときは何とか他の食材でごまかして食事を作るのだ。自分的にはとても残念。あったはずの食材のイメージが頭から離れないから。
家の中の失せ物にもなれてしまったが、何故無くなってしまったのか考えると失ったものよりも失った記憶が怖くなる。
理屈では多分こうして失ったんだろうと推測することは出来るけど、そのビジュアルがどうしても出てこない。ぽっかりと穴が開いたように。
わたしの記憶はよく嘘をつくような気がする。
特に昔の記憶など全部嘘のような気がする。そうすると本当の記憶は遠に消え去ってしまったのか…。
夢の記憶も曖昧だ。
夢が現実のように感じてしまうのはよくあることで、夢を見た数日?数週間くらい?は現実との境目をちゃんと意識しているのだけど、時間がそれをあやふやにして、現実にあった記憶として残ってしまうことも多いのじゃないかと思う。
夢と現実の境目がなくなってしまうのは本当に怖い。
現実のことさえ夢と感じるようになったら、いやもうなっているかもしれないけれど、自分の記憶の嘘にどう対処したらよいかわからなくなる。
自分の都合よく嘘に塗り替えている気がしてならない。
手の届かない記憶
記憶をなくしてしまうだけじゃなくてあやふやなものにどんどん置きかえって行ってしまうのは、やっぱり怖い。
自分の手の届くところだけならよい。
他者が関わることにはよほどの注意が必要。言葉を選び都合よく変換された記憶に振り回されないようにしなくてはならない。
人との関係でこれでは信頼というものを築けない。
人との関係を作るのが下手だったのは、気付いていなかった記憶の問題もあったのかもしれない。
地に足が着かない
わたしは何時からこうやって記憶が曖昧になったのだろう。
ずっと昔からなのだろうか?
よく「地に足が着いていない」と若い頃から言われ続けてきたのはこういうことだったのか。
時間の感覚もおかしくなって、どんどん過去にタイムスリップしたりする。その間も今の時間は流れているので、記憶がなくなる。そういうことなんだろうか?
いや違う。それは記憶にある現実。たとえ過去の中に身を浸していてもそれは今の過去に浸っているという現実として記憶されていること。
この年齢になって記憶の欠如に気付き始めるとは、なんとも情けない現実。
と、自分を責めるのはあまりよろしくない。
またどこかで記憶の塗り替えをしてしまうから。
ああ、やっぱり自分の都合よく記憶をいじっているとしか思えない。
本当にこの記憶の欠如は解離性のものなのだろうか?
蟲師の「暁の蛇」
蟲師のアニメで暁の蛇*1を見たときは何か少し引っかかる程度だったのだが、原作で読んだとき、その記憶の失い方や恐怖が痛いほど伝わってきて、それをまた夢に見てしまった。このお話も母と子、母の失った記憶を子が支えていっている。我が家と同じ。
頭の中の記憶の箪笥を一つずつ抜き取られていく。
何時の日か忘れたことも忘れてしまう。
それが一番怖い。
わたしの記憶も箪笥ごと抜き取られているのかしら?
いや別の記憶の箪笥とすりかえられているのか。
日常のことは繰り返し繰り返ししていることだから忘れずに済む。
忘れたくないことは何度も思い出して記憶に刻む。
わたしもそうしてみよう。
自分にとっていたい記憶もちゃんと覚えているように記憶に刻もう。いやちゃんと箪笥に鍵をかけよう。
絶対に見ないものとして出なく自分の意思でちゃんと箪笥を開けられるように。
解離性障害の中の解離性健忘?解離性同一性障害?
わたしの記憶の忘却が解離性障害のもので、わたしの中の誰かがちゃんと持っているのなら、何時の日かわたしもそれを共有したい。この表現であっているのかな?
でも未だに、解離性ではなく都合のよい記憶の塗り替えや喪失ではないかと思っている自分がいる。
もしそうなら、早くそんなことは止めれるように、地に足をつけて歩いていきたい。
それは解離性のものであったとしても同じ。自分のことは自分でちゃんと記憶し、しっかりと地に足をつけて生きていきたい。
今はそう思うだけで何も出来ない自分がいるのだけど、記憶を失っていることに気がついただけ成長?したと思って少しでも踏ん張っていこう。
地に足をつけて歩くというのは結構大変なんだなと感じている。
たとえほとんどの記憶が嘘で塗り固まっても、あの暁の蛇のお母さんのように一日一日記憶を蓄えていこう。
それはこうしたNETでの表現、書きとめのためのblogであり、視覚支援用の大きなカレンダーの書き込みであり、自分の手帳であり、記憶を残す方法はいくらでもあるはず。
穏やかな毎日が送れるように、そっとがんばってみようと思う。
愛蔵版この巻の最後に「暁の蛇」が掲載されています。
最後まで読んでくださってありがとう。感謝。